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「アレックス」
この名前を聞いて、
みぞおちの辺りに得体の知れないワクワク感を感じた人は、
結構な映画好きかもしれません。
知っている人は知っている。
そうです。
ここで紹介するアレックスとは、
スタンリー・キューブリック監督作品、
「時計じかけのオレンジ」の主人公の名前です。
スタンリー・キューブリック監督といえば、
「2001年宇宙の旅」「シャイニング」
「フルメタル・ジャケット」などで有名ですね。
さて「時計じかけのオレンジ」とは、いったい何か。
ネタバレですので、読みたくない人は閉じてください。
50年近く前の映画ですが (^-^)
また、少々過激な描写が登場します。
舞台は近未来のイギリス。
少年・アレックスは、欲望の限りを尽くした
自由奔放な毎日を送っています。
浮浪者を襲う、
対立する少年チームと致命的なケンカをする、
見ず知らずの家に押し入って住人に襲い掛かり、
家の中を荒らしまわる。
そういった非人間的な行為を、
楽しみながらレクリエーションのように行なっています。
アレックス(そして仲間たち)は、
いわば、現代社会のモンスターのような存在です。
そのいでたちは、
ハットをかぶり、白いシャツと白いズボンを履き、
ブーツを履いて、ステッキを持っています。
これが、彼らグループの夜用の衣装です。
目には、無気味な「つけまつげ」を付け
強烈なアクセントになっています。
スタイリッシュでサイケデリックで、
無気味で恐ろしい。
これがこの映画の一つの世界観です。
彼はあるとき、
仲間の裏切りから警察に捕まり、服役します。
そして、政府の行なっている
犯罪者の治療法の実験台になります。
その治療法というのは、
無理やり目を開かされて暴力の映像を見せつけられながら、
同時に強烈に不快になる薬を打たれるというもの。
そうして
暴力を見ると不快になる(吐き気が襲ってくる)
という条件反射を
無理やり体に刷り込まれます。
つまりこれが
「時計じかけ」というわけです。
治療は成功(?)し、
アレックスは暴力を見たり行なったりしようとすると
襲ってくる吐き気の苦しみのため、暴力行為を中断します。
アレックスの犯罪は、
こうした仕掛けによって管理されたのです。
めでたしめでたし。
しかし、物語はここでは終わりません。
治療の実験に使われた彼は、
その治療効果の宣伝に使われ、
政治の道具に使われます。
でも、アレックスはそんな事情はあずかり知らず
彼の生来の過激なエネルギーは
消えることがないのです。
(仕掛けは、本当の意味では効いていないのです)
興味があったら観てみてください。
ただし、「大人だけが観ること」!!
かなり露骨な暴力と性描写があるため、
決して児童や小さなお子様と一緒に観ないでください。
イギリスで上映中止になったこともある
過激な問題作です(*○*)
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アレックスは、社会から見ると、
理解を超えた異常な少年です。
しかし彼自身は、
自分の欲求に従って生きているだけであり、
本人には反省のかけらもありません。
誰から「そうしろ」と強制されたわけではなく、
育った環境が彼をモンスターにした
というわけでもなさそうです。
善悪の問題は別にして、
まさに自然発生的に生まれた、
天然のオレンジなのです。
その、天然のオレンジが、
「見せかけ」だけが善良な、
時計じかけのオレンジにされてしまう。
これって、
アレックス少年だけのことなのでしょうか。
どこか、僕らの身近な風景に似ていないでしょうか?
この映画は、
押さえつけることができない
本来の人間(オレンジ) を押さえつけようとする
社会の姿を描いたもの、にも見えます。
僕らは多かれ少なかれ、
社会のルールや教育で刷り込まれてきた
「常識」という仕掛けに縛られているでしょう。
そこから出ようとしても、
なかなか出ることができない。
なぜなら、「常識」や「ルール」が
体の奥まで染み付いているからです。
ルールの中で生きていく分には
大した不都合はないでしょう。
しかし、
本来の自由な発想や
「常識」を超えた自由な人生を取り戻すには、
かなりの努力やエネルギーが必要でしょう。
マトリックスのネオが、プラグをはずすがごとく。
映画や小説は、
一見当たり前の「世間の常識」が
実は本来の自分を
がんじがらめに縛り付けていることに
気づかせてくれることがあります。
生活もビジネスも、
作られた仕掛けに縛られ過ぎずに、
本来の自分が欲するものに従って
楽しくやっていきたいですね!
「時計じかけのオレンジ」の原題は
「A Clockwork Orange」です。
頭の「A」は、映画のポスターやビデオのジャケットを見ると、
アレックスの「A」の象徴であるとともに
不定冠詞の「A」つまり「不特定多数の誰か」
を示しているとも受け取れます。
アレックスは、全ての人がなりえる存在、ということでしょうか?